松村五夫さんのページ


三十会各位(H22.5.19寄稿)
 
今年の関東地区会は、須賀・堀井両兄姉、善きコンビ振りを発揮され、至れり尽くせりのお世話によって、極上の時を皆様とともに過ごさせていただきました。厚く御礼申し上げます。
人生の秋をこのように意義深く送れますことを、改めて感謝しています。
 
さて会合の中では、今や龍馬ブームの高知のこともあれこれ話題に上りました。
大河ドラマでは龍馬とならんで、武市半平太クンも大活躍の様子で、改めて全国にその名を馳せつつあるかの如くです。
この話題に因んで、思いつきのことではありますが、半平太(瑞山)が獄中で描いたと言われる掛軸絵画をお目に掛けたく存じます。
これは昨年、高知県立坂本龍馬記念館に寄贈した32点の雑多な掛軸作品の一つですが、瑞山は他にも梅を好んで描いたようです。
何かのご参考になれば幸いです。 (松村)


解説

武市 瑞山(たけち ずいざん)は、土佐藩郷士で土佐勤王党の盟主。通称は半平太であり、武市半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。号は瑞山または茗澗。坂本龍馬とは遠縁にあたる。 優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政 吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。一時は藩論を主導するが、八月十八日の政変により政局が一変すると藩主、山内容堂によって投獄される。1年半の獄中闘争を経て切腹させられ、土佐勤王党は壊滅した。
    

よみがえる『カラマーゾフの兄弟』(H21.12.18寄稿)

 この小論は2009年1月、教会の機関紙に投稿したものを、一般向けに部分的に書き替えたものです。クリスマスシーズンに因んで、というわけでもないですが、多少ともキリスト教に関係のある話題もどうかと思い、お目に掛ける次第です。

本文

 2006年から翌年にかけて光文社古典新訳文庫より刊行された、ドストエフスキー作・亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』全5巻が、二十,三十歳代の若い世代を中心にベストセラーの売れ行きだそうだ。今でも書店では平積みされている。
昨年9月の増刷時点で、累計101万部になったと新聞に載っていた。そのときの記事に
 

「同作品は世界文学の最高峰に位置するものとたたえられながらも、大部にわたる複雑で重層的な構成と、人間の根幹について深い思念を巡らす思想性から、読了がなかなか難しいとされてきた。しかし、(中略)亀山郁夫訳は『読みやすく理解しやすい』『初めて読めた』といった読者の声が集まったという。」
(産経
2008.9.29

とある。若年層の、とくに古典文学の読書離れが言われる昨今、とにかく優れた作品に関心がよせられるのは歓迎すべきことだろう。
 『カラマーゾフの兄弟』とは長い付き合いだが、このブームを機会に書棚を改めて点検してみると、中山省三郎訳、小沼文彦訳、原卓也訳、それにこの度の亀山郁夫訳と四種類あることが確かめられた。これらの中で私を最も感動に導いたのは、やはり若いときに読んだ中山訳だろうと思う。

 その頃、当時はまだ新進気鋭の文芸評論家であった佐古純一郎先生(現中渋谷教会名誉牧師)が新聞(朝日1958.10.2)紙上に短い文学論を書いており、その記事の切り抜きが、私の中山訳の文庫本に挟まれているのが見つかった。その記事の冒頭部分は次のように始まる。

 わたしは『カラマーゾフの兄弟』を毎年少なくとも三回は読みかえす。読むたびにあらたな感動をおぼえ、新しい意味を発見するのであるが、文学を読むよろこびとはそういうものなのである。反復鑑賞にたえうることが芸術の大切な要素であると考える。
 そのあとに、当時の日本の文学界の状況について、反復鑑賞にたえうる作品がどれほどあるか、と警鐘を鳴らしている。
すでに著名な評論家として論壇において、またキリスト教界においても多方面に活躍中だった佐古氏が『カラマーゾフの兄弟』を年3回も読みかえしたとは驚くが、私自身もこの記事を読んで、これは決して見過ごすことのできない作品だと、強く印象に残ったものだ。
作品内容に詳しく立ち入る余裕はないが、一つだけ取り上げれば、主人公のアリョーシャ(二十歳の男性)こそキリスト教的観点から見た理想的人間像を描いたのだと、同年齢だった私には思われたことだ。
読み返すたびにその人物の素晴しさとともに、自分はまだまだだなあと思いつついたずらに年を重ねてしまった。
アリョーシャは作者自身が、やがて書かれるべき第二の物語で本格的な活躍を約束していたのだが、作者の急死によって実現を見なかった。
したがって現存の第一の物語では、まだアリョーシャの人物像は素描の域に止まっているとも言えるが、それでもなお稀有な魅力を備えていることには変りない。

 最後に。昨年春ごろだったか、訳者の亀山氏がNHKテレビの、近代ロシアの思想と文学を語る番組に出演し、ドストエフスキーのもう一つの作品『悪霊』を取り上げていた。
その中で、この題名を「あくりょう」と読んでいたのが気になった。この作品の冒頭に作者自身がルカによる福音書8章32節以下の記事を掲げており、題名が聖書に由来することは明らかである。
聖書の日本語訳は古くから、日本古来の「あくりょう」とは異なる概念として敢えて「あくれい」と読ませているのであるから、この作品も「あくれい」でなければならないと思う。                                                              以上(
2009.12.18

8月15日に想うこと(H21.8.15寄稿)

毎年8月15日前後の時期は年中行事のように、メディアによる戦争回顧の報道が賑々しくて、あまり愉快な気持にはなれない。

「二度と戦争を起してはならない」

「戦争の記憶を風化させてはならない」

「戦争の体験を後世に語り継がなければならない」

など、マスコミが異口同音に繰り返せば繰り返すほど、私には空疎な言葉に聞こえる。本当にそうだろうかと疑う。

戦争は国家間の複雑な利害対立の増幅の結果とし生じるのであって、不戦の誓いをすれば国家は安泰であるかのような幻想を持つことこそ、国を危うくしかねない。

日本が当事者でない戦争であっても、手を拱いてばかりいられないことは、ここ数年の国際情勢をみれば明らかではないか。

戦争には何らかの形で関与しなければならないことがある、と覚悟すべきである。

また、人間は良いことは記憶するが、悪いことは忘れようとする本能がある。

一種の自己防衛本能である。

昔のことは程々に忘れていくことこそ心を健康に保つ秘訣ではないか。

それに逆らって戦死、空襲、原爆、敗戦、占領といった心理的には好ましくない体験の記憶につねに舞い戻って、「決して忘れるな」と負の心理状態へ自らを追い込むという、異常行動をし続けているのが戦後日本の状況ではないか。

「自虐的行為」と指摘される所以である。思考の健全性の回復が求められる、と私は思う。

過日私が空襲被災体験を書いたのは、非戦論や戦争の悲惨さを主張するためではなく、人生の中での稀有な体験を有りのままに述べようとしたつもりである。

戦没者遺族や民間犠牲者の遺族はその親族を失った無念は消し去ることはできないであろう。

しかしそれらの方々がみな「戦争は二度とするな」と叫んでいるわけではないことを私は知っている。

「戦わざるを得ない戦争であった」という側面を理解すれば、運命として引き受けることも可能だからだ。

「ああすれば戦争にはならなかった」、「こうすれば犠牲者はもっと少なくて済んだ」といった議論は無意味とは言わないが、既に歴史的事実として確定したことは、事実として受け入れることも大切であると思う。

「若い世代への期待」という斎藤さんの立派な提言を実現するためにも、大人がいつまでも過去の負の遺産にこだわり続けてはならない。

大人自らが長く続く「敗戦の憂鬱」を克服するためのあらゆる努力を惜しんではならないと思う。

克服すべき課題は大きく、重く積まれているが、思いつくまま列挙し、拙論を終らせて頂きます。

 1.東京裁判史観から抜け出せない閉塞感

 2.国家と国民を敵対関係に置こうとする階級闘争史観的な思想のはびこり

   (学校の日本史の教科書はほとんどが東京裁判史観と階級闘争史観のイデオ
    ロギーを基調としている)                                                                                                        

 3.憲法9条と自衛隊運用とのあいだの整合性に関する果てしない空疎な議論

 4.靖国参拝問題にみられるような、他国の内政干渉を排除できない国家の現状

 5.北方領土、尖閣諸島、竹島等領土問題の解決能力のない国家の現状

                                           以上

残暑お見舞い(H21.8.9 寄稿)


残暑お見舞申し上げます。早や立秋も過ぎまして。

 今年の夏はエル・ニーニョ現象の影響とかで、天候がイマイチ定まりませんが、まあそれなりに次第に盛夏の趣きとなりました。」

夏の暑さは加齢とともにコタエますが、それでも僕は冬よりはやっぱり夏がいいなあ。着るものが簡単で開放感があるし、早朝から明るいので気分が晴れやかだし・・・

現役時代のようにどんな暑さの中でもシャカリキに働かなければならないのは辛いでしょうが、今はまあマイペースの生活だし・・・

 家の傍に小さな森があるので、蝉の声が終日賑やかで、かつては夏になれば必死に蝉を追いかけた蝉採り少年だった僕は、蝉の声は今でも心が弾むなぁ。

 早朝に門前の道路を掃くのが日課のようになっていますが、近所の奥さんと雑談しながら、ということも時々あって、最近ある朝、蝉に関して薀蓄を傾けようと話し掛けているうちに、双方それぞれに意外な新知識を習得する機会となりました。

  奥さん: まあ! メスの蝉は鳴かないって本当ですか? 初めて聞きました。私、どの蝉もみんな鳴くものとばかり思ってましたわ!                                                                                                                            
  僕: へえ! そんなこと知らない人も居るもんですねぇ!

皆様のご健勝をお祈りします。

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■(亡父の)寄贈資料にまつわる戦中戦後の思い出(H21.8.3 寄稿)


1.寄贈資料: 山内容堂および三条実美書掛軸 3点
2.寄贈期日: 平成20年9月
3.寄贈先:  財団法人土佐山内家宝物資料館
4.関連記事:

 この度寄贈の資料にまつわる思い出など、記憶に残る昔のことを余談として記してみたいと思います。

 高知大空襲と終戦の昭和20年、私は小学校3年生でしたが、空襲で家が焼かれるまでは升形の自宅から第六国民学校(現第六小学校)に通っていました。

戦時中の国の政策で、各地の神社は戦勝祈願と英霊顕彰の場に定められ、尊重されていましたので、私たち生徒は年何回かは、集団で山内神社に参拝した記憶が
あります。

そして、校歌も時勢に合わせて歌詞が改訂され、次のように歌われていました。

一節だけ記憶にあります。

       ♪♪ 山内神社の森近く み空に映ゆる殿堂は
          忠と孝との六百が 戦場に続(つ)ぐ学びの舎(や) ♪♪

 「忠と孝と」とは、クラス分けのことで、忠、孝はそれぞれ男子、女子のクラス
の名前で、忠組、孝組と呼んでいました。

但し、1、2年のみ男女共学でした。

生徒数は歌詞の通り600人前後だったと思います。
今はどれ位いるのでしょうか。

高知大空襲があったのは、昭和20年7月4日未明でありました。

当時はすでに近畿や中四国の他の都市が次々と空襲を受け、高知市内も散発的に爆弾投下や機銃掃射に見舞われていましたので、早晩本格的な空襲があることは誰もが予想し得たことでした。

升形の我が家でもその時に備え、貴重品や主な家財道具を疎開させようと運びの業者に頼み、車力に乗せて運び出したのが7月3日の夜更け、大空襲のわずか数時間前のことでした。

このとき持ち出したものの中に、容堂の書を含む掛軸数十幅も含まれていたのだ
と思われます。

疎開先は母方の祖父の出身地である土佐山村西川(現高知市土佐山西川)でした。

 7月4日は未だ梅雨明け前で、土佐特有の蒸し暑さの中で寝苦しく、裸同然の姿で寝ていたところを突然敵機の大編隊に襲われ、焼夷弾の雨を掻い潜るようにして、久万にある親戚の家に逃げ延びました。電車通りに面した我が家は完全に丸焼けでした。

久万で一夜を過し、翌日家族7人で土佐山村まで3里の山道を歩き、夕方目的の縁故の家にたどり着き、以後数ヶ月その地に滞在することになりました。

その後、それまで別荘として使っていた種崎の家を住居に定めました。升形の方は、父が営んでいた日新館書店のみ焼け跡に再建し、引き続き商いをしていました。

掛軸は昭和33年、父の東京への転居に伴い、種崎から東京・三鷹市の家に移されました。

 父の死から間もなく掛軸書画について、高知の然るべき公共施設への寄贈の件が兄弟の間で話し合われてはいましたが、その後実際には約40年間、事の進展がないまま、その間3人の兄たちも高齢のため死亡したり、身体の衰えのため、このような手続きに関われるのは私一人になってしまいました。

 以上のような経緯ののち、この度然るべき最適の施設にお譲りすることが実現し、まことに幸いなことと喜んでおる次第です。 
                              以上
高知県立美術館所蔵作品
      
 

中山高陽《関羽》1778年、   
絹本彩色、三幅対(中央)、  
平成20年度 松村五夫氏寄贈