山脇俊彦さんのページ
■ターナー島物語(H21・08・25寄稿)
私は現在、母校(現、筑波大学、私の時代は東京教育大)の同窓会・茗渓会の仕事をボランティアとして続けております。
茗渓会の公益事業として社会貢献活動功労者顕彰事業というのがあります。その担当として、毎年全国各支部からの推薦等を受け10組(個人、団体合わせて)程度顕彰させて頂いております。
昨年、愛媛支部総会に出席した折、いまどき誠に珍しい、土佐の“いごっそう”も顔負けの人物の情報を得ました。結果としてその方を平成20年度社会貢献活動功労者の一人として顕彰させて頂きました。
以下にその方、松山市在住 北岡杉雄さん(73)の活動を紹介させて頂きます。
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愛媛県松山市高浜港沖合500bにある四十島を地元の人々は『ターナー島』と呼んでいる。
これは夏目漱石の坊ちゃんの中で 坊ちゃんが松山に赴任後間もない頃、赤シャツ、野だに誘われ四十島に釣りに行ったおり 島に自生していた松の姿が素晴らしく、島の風景は『まるでターナーの絵のようだ。これからはこの島をターナー島と呼ぼう』というくだりがある。このことによりターナー島と呼ばれるようになったとのことである。
ところがこの島の松が昭和50年代になって松食い虫の被害を受け、全滅。島はただの丸裸の岩礁になった。当時、愛媛県や松山市も有識者等を総動員し松の再生に取り組んだそうである。しかし、岩礁における松の再生は不可能という結論に達し、そのまま放置されることになった。
この決定に疑問を持った人がいた。当時高浜小学校の理科担当教員の北岡杉男さんである。全くの孤立無援という状況の中、ターナー島の松の再生に取り組んだ。度重なる台風の被害、岩礁の崩落等自然災害を受け続ける中、およそ二十年にも及ぶ試行錯誤の連続の結果、遂に松の再生に成功した。現在では二世の島生まれの松の生長も見られるようになっている。
本人談
『 誰に頼まれた訳でもない。どこからも財政的な支援もない。島に渡るには漁船をチャーターする必要があるが、その都度幾ばくかの謝礼もしなければならない。教員の厳しい財政状況では思うに任せない中、二度ほどやむを得ず泳いで島に渡ったこともあった。
県の有識者である農学博士の否定的な見解に対し“松のことは松に聞きましょう”と大論争を展開しながら取り組んだ以上、途中で辞めるわけにはいかない。………。
苦労の連続の二十年でした。しかし、ターナー島も中国・四国地方初の登録記念物に指定されたり、瀬戸内をはじめ、遠くは富山湾内の島など幾つかの島々において松の再生活動に対する指導、助言を続けたりするようになりました。
私のこうした取り組みが環境保全活動のお役に立てれば、こんなに嬉しいことはありません。』
注 J.M.W.ターナー (1775〜1851)
イギリス ロマン主義の画家(風景画)。
印象派を30年も先取りした先駆的作品を発表
漱石の時代のターナー島
2009.7.6 の靄のかかったターナー島(高浜港は工事中)
上の写真と比べると島の浸食、崩落の様子が良くわかる
以上